
「与えられたるものを受けよ。与えられたるものを活かせ。」
(ギリシャの哲学者・エピクテトスの言葉)
先日、大学時代の先輩後輩数人と集まって酒を飲む機会があった。そこで議題としてあがったのが、
「友達のお母さんの握ったおにぎりには、どうしても抵抗を感じてしまう」
というもの。これは全員の共通の友人が、かなり昔に主張していたテーマであるのだが、それが数年の時を経て、再度私たちの話題にのぼったのだ。
「友達のお母さんの握ったおにぎり」
……なんというか、もう、その文字面だけで圧倒的な抵抗を感じる。
そしてそれは恐らく多くの方々に共感いただける抵抗感だと思う。生産者のおじさんの顔写真付き野菜というものがブームになっても、製造者のおばさんの顔写真付きおにぎりというものは一向に売り出される気配がないことからも、この抵抗感は世にあまねく広がっているものであることが知れる。これはかなりデリケートな問題なのである。おにぎりというものは、その名の通り、一般的には素手で握って作られるものである。その、「素手」というのが大問題なのである。
阿川佐和子は『無意識過剰』というエッセイの中で、
「(おにぎりは)握る人の体内から出る汗と分泌物が、手のひらにほどこした塩と混ざりあって複雑な化学反応を起こし、御飯のなかに染みこんで、あの味をかもし出す」
なんてことを書いていたが、これ、ちょっとリアルに想像してしまうと「うげげ……」とはならないだろうか。
他人の手のひらから滲み出た汗と分泌物とが米の中に染みこんでゆく様は、考えれば考えるほど、なかなかにグロテスクであると、私なんかは思ってしまうわけだが……。
同じく「握って作られる」食べ物の中に寿司というものがあるが、あれに関してはまったく話が違ってくる。寿司は、「職人さんの味」「お店の味」なのであって、言わば”非日常の味”なのである。
それに対しておにぎりはどうだ。
あれは「お母さんの味」「家庭の味」の代表格、言ってみれば”日常の味”そのものではないか。
「家庭」という名の「日常」の中には、汗も涙もその他の分泌物も、全部が全部、ぐちゃぐちゃと混ざり合って息づいている。その中で生活しているときには、その事実は別に気にならない。だって自分もその一部なのだから。
自分のお母さんが握ったおにぎりを平気で食べられるのは、それが自分の生きている”日常”の中から出てきたものであるからだ。それが自分にとって害あるものでないことが、体に沁みついて分かっているからだ。
しかし、当然のごとく、他人の手のひらから滲み出る汗や分泌物の中に、自分の生きる”日常”は存在しない。それが、友達のお母さんの握ったおにぎりに対する、なんとも言えない抵抗感の発生する所以なのであろう。
それにしても、「友達」というのは、なんとなく「日常」を共にしているような気がする存在なのに、そのお母さんの握ったおにぎりひとつで、「こっち」と「あっち」とに分断する線が引かれてしまうとは、考えてみれば生々しい話である。
人間というものは、結局、そう簡単には、自分の生きる”日常”以外の”日常”を生きる者、つまり「他人」を、受け入れられるようには出来ていないのだ。
なんとも、寂しい話ではある。
と、ここでいきなりエグい話になって恐縮であるが、たとえば、セックスをしているときは、相手の汗やら唾液やらその他もろもろの分泌物を、すべて受け入れてあげられるような心理状態になるのに、一旦体が離れてしまったら、その瞬間から、もうそれらのものに対して親しみのこもった感情を抱くことができなくなっている自分がいる……。これもその類の話なのかもしれない。
一緒に飲んでいた後輩の男の子が
「セックスしているときは、相手は、自分だから。」
なんてことを言っていたが、(まあこれは極論だとしても)つまりはそういうことなのであろう。
自分と他人との区別が曖昧になったとき、今まで見えてこなかったものが見えてくる。相手の生きてきた「日常」が、相手の見てきた「世界」が見えてくる。自分の生きている「日常」が、「世界」が膨らんでいく。身体は離れても、一度覗いた相手の「世界」は、多かれ少なかれ、必ず自分の「世界」に影響を与える。そうやって人間は、少しずつ、少しずつ、変わっていくのだろう。
「与えられたるものを受けよ。与えられたるものを活かせ。」
未知のものを自分の体に取り入れるのは恐ろしいが、そこに衝動があるのなら、できるだけ素直になるべきなのかもしれない。たとえば、他人が笑って手作りのおにぎりを差し出してくれたのなら、そして自分が少しでも空腹をおぼえていることに気付いたのなら、多少の抵抗感には目をつぶって、思い切ってかぶりついてみるのが良いのかもしれない。
そうすることによってしか、きっと「世界」というものは、広がっていかないのだから。


