マジでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけない


マヂでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけない

医大生のときに、カンボジアへの医療支援などを行い、その活動が2009年に出版され、またその書籍の内容も踏まえたドキュメンタリー映画「マジでガチなボランティア」が12月4日に上映されるなど、幅広い活動を行っている石松さん。映画への思いや書籍への話、また今後についてなどのお話を伺った。

自分の言葉で伝えていなかった

もともとカンボジアを支援するようになったキッカケは?
もともと大学時代にはナンパばっかして遊びまくっていたんですよ。それで、大学2年生になって、GRAPHISの元になるメンバーと定期的にクラブイベントパーティを行っていました。そうしたらある時、メンバーの一人が、「カンボジアに学校建てない?」ってメールをくれて。もともとその友人がボランティアに興味のあって、その彼が郵便局かどこかにに行ったときに「カンボジアに150万円寄付すれば学校が建ちます」と書かれているポスターを見て、それで「これだ」と思いで全員にメールを送ったみたいです。
連絡をもらったときに、「カンボジア?」という意識よりも、学生団体が学校をどーんと建てるということに「かっけぇぇ」という思いがでてきて。ある程度のお金を集めたらできるらしいし、じゃあいつもやってるパーティでお金集めて建ててみようという形で、チャリティイベントをやろうと思ったのがキッカケです。

普通はそこで、「なんでカンボジアなの?なんで寄付なの?」って思う人もいると思うんだけど、初めてそれをどう思いました?
まわりの反応はボクは正直分かりませんでしたが、自分の中でイベントで毎回収益をあげてそれが毎回飲み会に消えていくのに、だんだん面白みを感じなくなった。3ヶ月間くらいイベントの準備とかしてそれでイベントが終わって10万円とかの収益がでるのに、それが飲み会かあ、みたいな感じでした。
それなら自分が何かやった証みたいな形に残るものを残したい、それが人の役にたてるといいよね、という感じですね。
でもカンボジアという国に誰も行ったことがないし、そのチャリティイベントでは、ネットなんかで一生懸命カンボジアのことを調べて発表したりしていました。
カンボジアのことについてスライドとかでスピーチとかしても、当たり前だけどみんなにはまったく響かず、みんなポカーンって感じ。
もちろんチャリティということでそれを目的に来た人もいて、そういう人ら最前列くらいの人たちは話をちゃんと聞いてくれていたんだけど、
ほとんどの参加している人は誰も聞いてくれなくて、みんなナンパに勤しんでいる。「まあでもそりゃそっか」というのも分かる。自分も逆だったらそうしただろうなって。WEBや本とかで調べたことをただ言ってるだけで、「自分の言葉で言っていなかった」という思いがそこでつのり、「正直カンボジアに学校建てると言ったものの、実際にカンボジア行ってみない?」
ということをメンバーとそれから話し始め、実際にそれでカンボジアに訪れに行こうということになりました。
あと、どっちみち学校はいつか建てようと思っていたので、その過程を考えるといつか行かないといけないわけですからちょうどよかったのかもしれません。

イベントで観客にそこまで響かなかったりしたのに、それでも学校を建てようという思いは消えなかったのはなんで?
最初のチャリティイベントでは、livedoorさんに協賛していただいて、最初のイベントは思った以上に成功してかなりの収益をあげることができたんですよ。なので、このままいけばすぐに学校が建てれるな、と思ったのですが、ちょうどlivedoorが当時ニッポン放送の件でもめてた時期とたまたま重なり色々なメディアでそれらが報道されたのもあって、自分らのことも2チャンネルなどの掲示板サイトで「あんな会社とかと一緒にやってる団体だからお金とかチャリティじゃなくて飲み会とかに使ってるんじゃない?」などのコメントですごく叩かれてた。そういうのもあり、カンボジアに実際に行って自分たちが感じたことを人に伝えたい、そんなことにお金は使ってないよ、という思いでした。

マヂでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけない

それで実際にカンボジアに行ってどうでした?
一番最初は蒸し暑いと思いましたね(笑)
それまで海外に行ったことなかったので、初海外がカンボジアなんですよ。だからなおさら不安で。現地に着いたら、今はすごくキレイだけど、当時は本当に農地の真ん中にある滑走路を走ってる感じで、「これが発展途上国かあ」みたいな感じの印象でした。
そこから学校建設地に行くにもバスでずっと平地が続く中を走ってて、ただ木があるだけみたいな感じなところでした。やはりwebや本でみたりするのとまったく違いましたね。
やはり生で見ることでの体験は違いますね。
また、それまでは子どもたちの”学校”というハコを想像していた。でも直接子どもたちをと会い、「この子どもたちのために学校を建てるんだ」ということでモチベーションが上がったし、一つ印象深かったのは「将来何になりたい?」という質問をしたらある子が「お医者さんになりたい!」と言ってくれたことでした。自分も小さいころから医者になりたいと思っていたので、この小さな農村の地域の10歳くらいの男の子の「医者になりたい」という言葉が自分の中ですごく心に響きました。だからそういう夢をもってる子たちを純粋に応援したいと思った。自分が学生の間にナンパとかして遊んでばっかよりも、自分が何かしら頑張ってその子らに勉強の機会を与えられると分かったら「やるっきゃないでしょ」と強く思うようになりました。

途上国は1歳未満の死亡率が10%程度と聞くよね?
カンボジアはそうですね。発展途上国だからそのくらいの率なのかなとなんとなく頭で想像できたとしても、それが実際に自分の身におきたらと考えると、「いやーそれはないっしょ。」と思ってしまう。
そういうことも現地で色々と教えてもらいましたし考えさせられました。子供たちがすっごいが笑顔で接してくれるような楽しい部分もあれば、そういう闇な部分というか現状みたいなものを痛感しました。

そこから帰ってきて、どうしたんですか?
自分たちでまずできることをやろう。そこからはひたすらイベントを多くやっていくって感じでした。次第にイベントの規模も大きくなっていきましたしね。それに純粋に苦痛でじゃなかったんですよ。すごく楽しかった。僕自身はもともとそういうのが好きだったのもあるんですよね。やっぱイベントの当日の興奮は楽しいし、モチベーションが保ててやれたと思います。

それで実際に小学校を建てたんだよね?建てることができて、開校式のときはどうだった?
今までの21年間、自分が人に何かして感謝されることがなかった。でも開校式のときにすごい拍手で迎え入れてくれて、「ああ、こんな自分でも人の役にたてるんだ。学生ながら全然言葉通じないあの子たちにもこんな感じで迎え入れられるんだ」みたいな実感がすごく湧いてきました。そういった何か人の役にたてれる活動みたいなものをずっとやっていきたいなという感じにさせられました。
それと同時に思ったのが、小学校を建てるだけじゃ意味がないと思ったことです。自分は医療系だったというのもあり、現地の病院で色々と見学させてもらって、そこから今度は医療支援をすごいしたいなと思いました。現地に行ったときに、エイズ病棟で2日間で100人の患者さんと一緒に過ごさせてもらったとき、ただただベットの上に放置されている患者さんがいて日本の医療とは全然違う世界を垣間見て、これまでの自分とはまったく違う世界を目の当たりにしたのを覚えています。

そういう決断や判断に対して、まわりはどう思った?
やはり、抜けていく人が多かったです。初期メンバーのほとんどは抜けてしまったと思います。なのでそこからまたメンバーを自分で募り、スタートしていきました。

本にも、苦悩やメンバーとの葛藤が描かれていますよね?
抜ける原因というのも、学校も継続的に支援していくほうにしようという意見と、病院なんて学生ができるものでもないし、そこまで自分はコミットできないという意見の二つがあった。
もちろん学校を継続的に支援していくことに否定はしないし、そのままずっと継続支援していきましたけど、プラス病院というものをボクはやっていきたいというものだった。
でもやはり「そこまでは無理っしょ」という意見が大半だった。大学の勉強もあるしね。それで抜けていった人が多かったけど、そう言われたら仕方ないという部分もあった。サークルだし、強制力は別にない。でも自分はこのサークルに賭けていたし学生生活を賭けようと思っていた。そういう意識でやってきたつもりだし、それだけ意義のあるものだと思っていた。

石松くんの熱意がだんだんまわりに広がっていったんだね。

参加団体の規模も徐々に大きくなってきたけど、その協力してくれる人もみんな社会貢献への意識ってあったの?
はっきりとは分からないけど、でも自分が何か関わることでそういうことに間接的でも役に立てるというものがあったなら、やりたいという気持ちはあったと思う。
例えば俺だったらイベントやるのめっちゃ好きだし、イベントをやって何か人の役に立てるならと思うし、ダンサーだったら、人前でダンスを披露してそれが誰かの役にたてて支援につながるなら、というような意識な人はそれなりにいたと思う。結局は自分ができること、自分がやれる範囲でやれることが人の役にたてるといいなという思いだと思います。

伝えることが大切

「知ってしまったからには誰かに伝えなければいけない」という言葉が、著書の中でも随所にでてきていますが?
この言葉は、この映画の監督から言われた言葉で、この言葉を聞いたときにビビビッっときましたね。自分はこれまでカンボジアということを知って、こういうのがあったよ、と伝えて終わらせるのではなく、そこに伝えることに責任感や使命感を持ってやっていくということは、カンボジアに限らずなんでもそうだと思うしすごく大切なことだとすごく思いました。その言葉は今でも大切にしています。

伝えることが大切、ということをイベントでも動画やトークなどでいつも話していますよね?
結局僕らがどんなに頑張ってお金を集めても、それってODAとか政府や企業とかが発展途上国に支援する金額に比べれば本当に小さな額なんですよ。なので、ただお金を寄付することは実は別にそこまで本質的なものではない。それによって学校で子供たちが勉強できる環境ができることや実際に治療できる患者さんが増えたりということはもちろんあったとしても、それは全体でいえばごく小さいし限られた人たちだけへのものだと思う。
そうではなく、新たな動きや流れを作るにはやはり若い人たちの中に途上国というキーワードをみんなに植えつけることのほうが大切なのではと思っている。
そういう問題意識をもつことのほうが今後10年20年先を考えて行った上で意味のある途上国支援につながるんじゃないかな。
みんなこれから社会にでて、何かしらのプロフェッショナルを身につけていくと思います。その得た技術やスキルを途上国に還元することのほうがお金をわたすよりも何百倍も意義のあることだとボクは思う。ボクみたいに医療従事者が途上国に行って実際に医療を行ったり、教員が途上国で教鞭を振るったりなどのほうが、実は直接的な支援につながる。でもそれを実際に行動に移すためには、学生時代や若い時期にその人の内面に発展途上国という現状を知ってもらうことが大事ですよね。お金は手段でしかなく、本質的なものは自分がやれることや現状を知ることでの意識の変革だと思います。

出版甲子園や映画の件は、そういった流れで人に伝えるということでできたの?
もともと本はだしたいとは思っていました。団体の活動などの様子をblogに書いていて、その延長として
自分が今までやってきたことを、純粋に本にできたらと漠然とは思っていた。そしたら出版甲子園という企画を知り、速攻でそれに応募してみようと思いました。応募して一次二次などの審査を経て最終ノミネートされて、最後のスピーチでは映像を交えて、自分がカンボジアで感じたことやサークルでやってきたこと、どういう思いで今病院建設を行っているかなどを話す、そんな感じのプレゼンでした。
おかげさまでなんとか出版甲子園でグランプリをいただいて、それで数社から出版のオファーをいただきました。打ち合わせをする中で、講談社の担当の人がすごくボクのことをかってくれて、それで出版へという流れになりました。

マヂでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけないslot machines />

映画は書籍のあとに話がきたの?
監督に会ったのは07年2月だったんですが、もともと映画を作ろうとしてカメラを回していたわけではなくて、実際にイベントにお客さんが参加して、学校などがどうやって形になったのかを、それまでは写真をベースに記録として話していたけどそれを映像でできたらいいなと思い、とりあえずカメラをまわしていただいたという感じです。やはり写真と違い、動画は実際に動きや人が動いているわけですから、動画のほうがより伝えるということに関してはいいですよね。お会いしてから、その年の8月のカンボジアに一緒に同行していただいて、そのときの写真が今の映画のポスターになってたりしてます。

そこから映画になるキッカケというのは?
出版決まったくらいの時期に、いつか映画になったらいいな、という話はしていました。
本が出版されるころに、監督に原稿を読んでいただいたら、「え、あの映像を撮ってくれと言っていた時期にはこんな裏のドラマがあったのか」みたいな感じで監督が驚いたりしてて。それをなんとか形にしようという思いで監督が「映画にしない?」とお声をかけてくれたのがキッカケですね。それから監督さんもカンボジアに何度も足を運んでくださっていただきました。

映画にしない?と言われたときはどうでした?
本はまだ自分で書いたことが描けるし、それをもとに人に伝えることができますが、映像に関しては監督の視点で見た映像なので、嬉しい反面ちょっと怖いのが大きかったですね。そんなに自分たちができている団体でないし、いわゆるいまどきの大学生がボランティア活動をしているということで、ぜったいどっかの歪みたいなものは生まれるものがカメラに映るというものもありますし。
見た目も普通の大学生だし、ちょっとすればチャラチャラしている学生が、そういうボランティアとか発展途上国支援を行っているというのが見方によってはあまりいい意味で捉えられないという視点もなくはないですしね。うちの団体にとってプラスに働けばいいですけど、必ずしもそうはなるとは限らないですから。でも映像として見てみたいなという思いも反面ありました。

仲間内やサークルの人は、本になったり映画になったりすることに対して何か反応はあた?
普通に嬉しいという反応でしたね。自分たちの活動がなんにしても、学校にしてもイベントにしても本にしても映画にしても、何がが形になるということはやはりすごく活動していることに実感がわくしすごくモチベーションにもつながっていると思います。

マヂでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけない

本や映画のタイトルって誰が決めたんですか?
タイトルは自分が決めました。”マジ”とか”ガチ”っていう、いわゆる若者が使うような言葉でいきたいというものが一番最初にありました。「ボランティア」という硬そうな言葉を、いまどきの若者の言葉とつなげて、ゴロもそれなりにいい感じになったかなと思います。

説明文などにギャルとかの言葉がついていますが、一般的にギャルと呼ばれてる人たちや自分たちのことをどう思う?
基本的に、ギャルの友達がいれば分かると思うけど、ギャルっぽいよね、と言うと、「あたしギャルじゃないよー」って返ってくるかなと思います。ギャル男っぽいよねと言っても、大概が否定する人が多い。
なので実はどちらかと言うと、外からギャルという名前をつけられ、まあ別にそういうことに気にしないという感じで容認していった感じがほとんどですので、自分たちでギャルだという認識はとくにない人は多いですよね。そういう意味では、外の視点からラベリングされた”ギャル”みたいな感じではあるのかなと思います。
つまり、”ギャル”って言葉自体が、いまいちよく分からないものの中で、誰かが勝手にそう呼んでるだけのものですからね。そういう意味では僕らも普通の大学生ですよ。
なので正確にいうと、「ボランティアをしそうにない若者がボランティアをやってる」
それを表す言葉がないから、それを”ギャルギャル男”という言葉で補完しているということでしかない、というのが分かりやすいですよね。
ボランティアサークルでありながら、ボランティアにまったく興味のなかった人が9割あるというサークル自体が、一番の特色であるのかなと。見た目のギャルとかってのは表面的でしかないですよね。それにこういった活動に対してみんなが楽しさを見いだしているということがすごく大事だと思います。

今はGRAPHISは引退という形ですよね?
OBみたいな感じですね。ボクのあとに女の子が代表になったりして、みんなで活動を引き継いでいます。活動の幅もボクのときよりもじょじょに広がってきて、現役でやっている子たちはすごいと思います。その後の継続支援として、8kmの病院までの道を舗装して救急車を走らせて、そして今はお医者さんと看護師さんと事務の方を雇って病院が機能させるなどの支援もしている。後輩がそういうふうに育っていくのを見てるとすごく楽しいですし逆に羨ましいと思ったりします。自分もまだ現役でいたかったと思ってしまいます。4年間いてもまだ現役でまだもっとやれた!みたいな感じで(笑)

あくまで学生の、という団体ですよね?
学生が学生のために行うという活動ですからね。それでどんどん引き継ぐということが大事だと思っています。寄付の金額云々ではなく、活動を通じて発展途上国に対する問題意識や関心などをもって、今後別の分野で関わってもらう人が増えることが大事だと思っています。なので、この活動が何かのきっかけの一つになれればという感じですね。

医療の分野で新しい仕組みをつくっていきたい

-石松さん自身は現在、大学を卒業して研修医という立場ですよね?
だいたい朝6時に起きてそのまま病院に行って、今救命救急をまわっているんですが、救急車にかつぎこまれている人への対応を行っていて、だいたい20時頃に一応終わるかな。もちろん土日も普通に仕事な感じで、休みは3ヶ月で3日間くらいだった気がします。まあお給料のお話するとなおさら厳しいですが(笑)その研修を2年間続けなくちゃいけないですね。

自分の今後みたいなものはなにか考えていますか?
この2年間は臨床の現場をきちんと学んで、そのあと入局という形で自分の専門を決めるんですが、そこで一つ分かれ道なのですが、循環器内科・消化器内科みたいな感じで入局して、専門医になるのにだいたい10年くらいかかる。10年間そこの分野の勉強をしてその分野に身を埋めるというのと、あと、海外に行ってみたいなという気持ちもあって。
実はこんなに海外を舞台にしておきながらボクは本当に英語ができなくて。もちろんカンボジア語もできない(笑)
それで辛い経験も何度もしたのですが、辛いというか悔しい思いをして、もっと世界の人とつながってみたいなという気持ちがすごく強いです。

マヂでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけない

石松さん自身も国際関係に関わりたいというのは、この活動があったから?
医療を通して、自分の診療所で医療をしたいというのはありますね。お医者さんも、場合によってずっと病棟の中にいることが多いので視野がせまくなったりする。ボクはどちらかと言うと外に出たいという感じですし、何か外の話を聞きたいと思っています。そういう意味も含めて、一回外に出たいという気持ちはありますね。もっと人と知り合いたいですね。それ以外にも医療経済とかも勉強してみたいですね。今後としても、まずは診療所で診察をしてみたいということ。あとは医療の中で大きな枠組をやっていきたい。あと医学部つくってみたいとか(笑)
やはり仕組みみたいなものをつくっていくのが好きなんでしょうね。

自分のこれまでの人生について、こういった活動をもし行っていなかったら?
想像がつかないけれども、おそらくナンパしていたのかもしれないですね(笑)
ただ6年間もおそらく続いていないとは思いますけどね。たぶん飽きてたんじゃないかな。

活動の4年間はどうでした?
すごく充実していました。こういうことも通じて、今後も医療に携わっていきたいですね。医療からは離れたくないですね。それは臨床という一対一の患者さんとの関係というわけでなく、もっと大きな枠組などの違いなどはあるにしても、医療という分野の中でずっとやっていきたいですね。
GRAPHISの活動にしても何にしても、すべてが繋がっていると思うんですよね。グラフィスで学んだことは今の仕事にも活きているし、今の仕事は今後のステップや仕事にも活きてくる。
一つ一つの行動に意味をもって、将来につながるという意識でやっていきたいですね。

12/4に実際に公開になるのですが、どういう人に見てもらいたいですか?
同世代の人たちもそうですが、今の大学生に見てもらいたいですね。あと、自分が打ち込んでいたことが絶対何か形になっていくものだと思っています。自分が日々取り組んでいるものは、絶対将来に繋がっている。それは国際協力の世界でなくても、どんな世界でも今の活動は世界を変えるきっかけになれるとボクは思っています。
ぜひ今やっていることに打ち込んでもらえればと思います。

マヂでガチなボランティア「知ってしまったら、それは誰かに伝えなきゃいけない

お話ありがとうございました。今後もぜひ医療の分野で頑張ってください。応援しています。
ありがとうございました。

ハチヨン医大生 石松宏章
1984年4月2日生まれ。大分県。
ナンパばかりしていた学生時代から、カンボジアへの医療支援団体「GRAPHIS」とチャリティ活動「ラブチャリ」を立ち上げ、小学校や病院などの建設を4年間行ってきた。その4年間の活動の軌跡を描いた著「マジでガチなボランティア」が講談社文庫から出版。2010年12月には、ドキュメンタリー映画「マジでガチなボランティア」が、上映される。

twitter
http://twitter.com/#!/hiroaki_0402
blog
http://ameblo.jp/hiro-lovechari/
映画サイト
http://www.majigachi.jp/
書籍

学生医療支援NGO「GRAPHIS」
http://graphis-ngo.jp/